イヴ

    ブリジットが亡くなって1年ほどになる。先週、夫のイヴが旧友ディディエを訪ねてデュッセルドルフまでやってきた。昨夏、やもめになったばかりのイヴをナントに訪ねた際は灰色の顔をして黙り込み、家の至る所にブリジットの写真を飾り、バスルームに彼女が使っていたそのままに置いてある化粧台は祭壇のように見えた。今回のイヴは、太鼓腹と赤ら顔の昔の姿に戻り、多少の演技はあるのだろうけど快活に笑う。

    若年性アルツハイマー。3年ほどの看取り期間は想像を絶する。

    ブリジットは建築デザイナーだった。今にして思えば、なことが沢山ある。優しい人柄で同僚にも好かれ楽しんでいたはずの仕事を、発病の数年前にブリジットは唐突に辞めた。人間関係が煩わしくなったから、と。人格の変化はあの時既に始まっていたのかもしれない。発病後は日増しに幼女に還っていく妻を、イヴは母親のように世話した。他にどうしようもなかったろうけれど。

    イヴは精神科医。自分の状況を客観的に把握はしているが、だからといって体験が軽く済むわけではない。発病後まだ日常生活はできていた頃、ディディエが「ロンドンへ息抜きに来ないか」と誘った。イヴは「いや、二人だけでコルシカ旅行に行くから」と断った。先週末の夜、日本みやげのシングルモルト“白州”を舐めながらイヴは、「コルシカへは、心中しようと思って行ったんだよ」と白状した。
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    自殺は病死だと私は思っている。うつ状態は、それがイヴのように外的要因に誘発されたものであれ、脳内伝達物質がもともと上手に繋がらない場合であれ、あらゆる意欲を奪う。悲しみというより、「いったい何のためにこんなアホなことを続けにゃならんのか」という疲弊感が、命を止めてしまうのだ。

    ずいぶん回復したイヴだが、再婚は念頭にないそうだ。アムールの国の人ゆえ、もう歳だからというのはない。ただ、大恋愛だったブリジットとの結婚生活があんなふうに終わった後で「女を追いかけ、恋愛し、結婚生活の責任や不便や束縛を受け入れ‥‥それこそ何のためにそんなアホなことをまたぞろ」と言う。「僕は再婚してよかったと本当に思ってるけど」とディディエ。「まあ、今は変な言い方だけど独身生活を謳歌してるんだ。いつでも好きな所へ行けるし。この夏は中米に住む息子と一緒に南米一周旅行だよ」とイヴ。

    ディディエも前妻を亡くしている。「妻は死んだけど、僕は生きている。生きていくには幸せにならなきゃ」と思って、私とつきあい始めた。それは死者への非礼でもなんでもない。生きている者には、死ぬまで生きるしか選択肢がないのだ。死ぬまでの間不幸でいることが誰のためにもならないのは明らかだ。ついこの間、日本で会った旧友の言ったことを思う。彼女も昔、家族を自殺で失っている。そのお墓参りに行った帰り、「墓地の近くの中華屋さんで食べたタンタンメンが美味しかった」のだそうだ。そうだよね、と心から思った。

    フランスへ帰ったイヴから葉書が来た。「ありがとう、心に残る滞在だったよ。これからいい季節だ、よい夏を」と書いてある。やがてそのうち、「またぞろ」恋愛中と言ってきても驚かない気がする。

    テーマ : 「生きている」ということ
    ジャンル : 心と身体

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    シカ

    Author:シカ
    夫のカエルとともにヨーロッパに住むシカです。シカは日本生まれですが、ここ20数年イギリス、フィンランド、ノルウェー、スペイン、ドイツ、振り出しに戻る(イギリス)と流れてきました。カエルはフランス生まれです。詳しくは自己紹介ページへ。

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