赦すこと

    アイツのおかげで私は‥‥と思うことが誰しも一つや二つはある。大抵の人が、誰かの手で、取り返しのつかない、時にすら癒せない傷を負ったまま、なんとかやってきたのだろう。謝ってもらうとか治してもらうとかの次元でない加害者を、赦すことってできるのだろうか。

    できるできないではなく、赦すより他に方法がない。

    なぜって、ソイツは、いつまでも存在してはくれないから。恨む対象として存在し続けてくれれば、恨みようもあるけれど、いなくなったら、恨んでどうなるのか。恨んでいる自分も、いなくなるのに。

    私は遺伝子と環境でできている。ありがたいものも、迷惑なものも、もらって自分の血肉となってきた。犯人が明らかで手の届く場所にいた場合は、これは迷惑だったんだよ、どうしてくれると喚いたこともある。でも、当惑したり逆ギレしたりの反応から得るものは何もなく、私一人が傷ついていれば済むことを加害者まで傷つけて、ロクなことにならなかった。

    ハンプティダンプティ、割れちゃった卵。元には戻らない。割った人を責めたって、割れたものは割れたまま。

    割ったヤツを責める楽しみってものがあるとして、やっても何も返ってこないし、そのうちやることすらできなくなるし、そうしたらどうするの?

    割れた状態でオムレツ作るしかないんじゃないの?

    自己責任ということ

    この間、カズオイシグロの『日の名残り』について日本の知人と話していた。「誤った選択であっても自らの責任で犯した誤りだったと言えるダーリントン卿と、卿の選択に従っただけの執事では立場が違いすぎる」と私が言うと、彼は「でも従うという選択をしたのは、自己責任でしょ」と言った。

    自己責任、という言葉が流行語のようになって久しい。ワザワザ危険地域に渡航し怖い人達に捕まって国家を巻き込む騒ぎを起こした人たちなどを叩くのに盛んに使われる。

    私が幼い頃、母方の祖父が上京してくる度、夕食どきに両親と祖父が議論を交わしていた。日本基督教団は、自分たちが第二次世界大戦において政局に迎合し加担したという「戦争責任告白」なるものを公にしていた。その告白に、一言で言ってしまえば私の両親は賛成し、祖父は反対していたのだ。

    星目がちな理想主義の塊だった母は、篤信で人望厚い田舎の名士である父親が自らの非を認めないことに驚いていた。「どうしようもなかった。選択の余地がなかったんだ」と言う祖父に「お父さん、どうしてそんなことが言えるの」と詰め寄った。戦争中にはまだ子供だった世代に、徴兵され洗脳され殺戮に加わった世代の心中がわかるはずもなかった。

    私には、今になって祖父の言い分がいくらかわかる。自分のことを自分で決められないことを、従属という。自由がないということ。自分の心ではなく庇護者・所有者に“従う”者。大人に対して子供はそういう立場にある。国家に対して国民がそういう立場にあってはいけないのだが、ある。

    日本の政治は、国民の大多数を有象無象の衆にすることに成功してきた。戦前戦中戦後を通し、日本の報道と教育は、知識と技術だけは教え込みながら物事を自分の頭で考え選びとる力を養わないという離れ業をブレずに演じてきた。

    民主主義だ主権在民だ選挙権だと言われても、自由って何それ美味しいのという層にその器はない。考える力がなければ、新聞を読んでもテレビを観ても街頭演説を聞いても、本質が理解できない。だから責任ある一票を投じようがない。

    アメリカの南北戦争後に奴隷の身分から解き放たれ自分の意思と責任で人生を切り拓いていけるようになったのが、自由民。間違った選択であっても自らの選択だったと言えたダーリントン卿にはあり、従っただけの執事にはなかったのが、自由。自由は当然の権利ではなく、特権だ。

    自由のない身には、責任能力もありようがないと思うのはおかしいだろうか。そして自由をもつ特権階級には、それに比例する責任があるはずだが、それを体現する政治家や資産家にお目にかかることは非常に珍しい気がする。

    夫の長留守に考える

    10月に3週間日本で過ごして、帰ってきてからもう3週間が経った。夫は、初孫に会いに11月8日からカリフォルニアに行っている。私は、夫が20日に帰ってくるまで2週間弱の独り暮らしを楽しんでいるところ。

    誰にも見られず、コメントされず、夜中に少しの物音ぐらい立てても気にせず、気が向かなければ1日シャワーも浴びず、お腹が空いていないのにご飯をつくる必要もなく、自堕落に過ごす。独りなので洗濯もあまり溜まらないし、掃除も一回すればずいぶん長くきれいなままだ。こんな自由は、10年ぶりぐらいかな。猫さえ邪魔に思うくらい、独りはたのしい。

    これが常態だった頃は、やっぱり寂しかった。ノルウェーで、毎日冷凍ピザを食べ箱ワインを飲んでいた頃。今の方がいいかと訊かれれば、もちろんいい。病気の時、薬を買ってきたり車で医者に連れて行ってくれる人‥‥何にも増して「気分どう?」と覗きにきてくれる人がいるのは心強い。日本でギックリ腰になった時は、日本語しか通じない薬局で「ツマは、コシがいたい。動けない」と一生懸命説明して、ロキソニンの錠剤と貼り薬を渡されてきた。

    なんだ、突き詰めれば、老老介護が目的で結婚したのか。まあそう言えなくもない。30代は全能感の塊で、誰もいらなかった。たまに恋人みたいな存在があれば十分で、生活を分かち合う相手なんておよびじゃなかった(なのにいたけれど)。でも40代に入ってから、寂しくなった。「これから歳をとります。いろいろ不調が出てきますので、誰か一緒にいる人を見つけてください」と身体が指令を出しはじめたのだろう。

    夫もやはり、配偶者と離別・死別して50になろうという時点で、誰かいた方がいいと思ったらしい。いや、らしいではなくハッキリそう言っていた。

    動機が不純ということになるのかな。それでも必要としあい、労わりあって一緒にいることは、いいことじゃないのかな。

    相手を見つめる

    人は誰しも、刻一刻と成長し老化し変化している。一日たりとて、昨日とまったく同じではない。誰かを愛している時には、その人の小さな変化にも目がいくものだ。

    今日はちょっと元気ないなとか、髪型が違って見えるかなとかの、小さなことかもしれない。ああ、この人は他の誰かを想っているといった、肝心なことかもしれない。重大な病気に気づくのも、本人よりもその人を愛する誰かってことも無くはない。

    結婚生活で相手の小さな変化に気づかなくなった時、相手が家具のように見え始めた時、愛はなくなっているのかもしれない。

    そんな話を夕べ夫としていた。今のところ愛し合ってるよね、と変な安心を共有しつつ。

    お姉ちゃんのまま老いる私

    夫が息子夫妻とスカイプで長話をしていると思ったら、ニコニコと頬を紅潮させて食卓についた。10月に、息子夫妻に赤ちゃんが生まれるのだ。

    10月は夫婦で日本へ行く予定だったが、予定変更して赤ちゃんの顔を見にカリフォルニアへ行こうかなと言う。よかったねと言いながら私は複雑な気持ちになる。夫はおじいちゃんになる。私はお姉ちゃんのまま。

    これから先、夫婦二人だけで年老いていくのだと思っていた。互いだけを頼りに、互いだけを思って。‥‥んなわけ、なかったじゃないか。夫には息子がいる。そして孫が生まれる。そうやって彼の命は繋がれていく。愛おしいものを遺していくのだ、この人は。この世に存在した意味も証拠も残らない私とは違う。

    やがて生まれた幼子を連れて息子夫妻が我が家に滞在する日も来るだろう。子供という生き物の取り扱い方を知らない私は、戸惑い呆れられ疲れるだろう。そんな先のことまで頭に浮かんで、食事中、私は黙り込んでしまった。

    夫にとってこれ以上ない喜ばしい報せを一緒に喜べない自分のケチさにも気が滅入る。仕方なく、夫に白状した。「あなたには、おめでとうって心から思うんだよ。でも私が嬉しいわけじゃないんだ。ごめんね」。

    夫の顔が曇るかと覚悟していたのだが、そんなことはなかった。「ああ、もちろんそれは分かるよ。僕だって、自分が浮かれてるわけじゃなくて、息子におめでとうって気持ちの方が強いよ」。

    夫は本当に優しい。お姉ちゃんのまま歳を重ねるしかない私の未熟さも痛みも、わからなくてもそのまま受け止めてくれる。同じ気持ちにはなれなくても、一緒に歩いてはいけそうだ。

    英国の冬の夜、猫を抱いて思うこと

    まだ還暦には早いけど、大雑把にはそういう年代にさしかかっている私。閉経期でもある。還、経という字を見て思う。人生の中で、周るというテーマの季節なのかな。早い時期にしたことが巡りめぐって戻ってくる、意味をなしてくる。

    今年は、初恋の相手に出会ったエジンバラを最後の伴侶と共に訪れた。初めて働いた職場の先輩にニューヨークで、初婚相手の弟とカリフォルニアで再会した。20代に初めてフィリピンを訪れた時は貧困のマグニチュードにやられて頭がおかしくなりかけた私が、今回はベトナムで、“考えても仕方のないこと”を考えすぎず欧米人観光客向けの贅沢旅行を楽しんでしまう図太さを身につけていた。そして、幼い頃から取り憑かれていながら何十年も行き先を間違え続けて辿り着けなかった英国に、どうやら永住している。

    ベトナムで、クルーズ船の若いガイドが忙しい仕事の合間に「ねえ、シカ。どうやって英語を覚えたの」と聞いてきた。「そりゃ、たまたまだよ。運がよかったの」と答えながら、自分の若い頃、24時間働けるけど食っていくのがやっとの時代を思い出した。会社で招いた英米人の客に傅いて、通常勤務の他にホテル送迎から食事や観光の世話まで駆け回った。そこまで頑張る私に驚く客に「そうするよう指示されてますから」と答えた記憶が蘇る‥‥。ハノイの利発な彼女に、物も心も豊かな将来を本心から希った。

    自慢にならないけど、私は貧困を知らなくはないと自慢したくなる。

    ノルウェーでは「寒い、ひもじい、もう死にたい」を地で行く暮らしをした。スーパーにペットボトルを返すと1本20円とか戻ってくるので、日本語授業後の夜の大学構内や、日曜日の早朝バイト先の教会へ歩く道すがら、酔っ払いや学生たちが捨てたボトルを集めた。

    そもそも私の生育環境は武士は食わねど高楊枝な貧乏で、高学歴で先生と呼ばれる職業ながら呆れるほど薄給の親に、難民キャンプみたいな家で育てられた。

    だからお金がないということがどれだけ尊厳を傷つけるか、知らないわけではない。それがなぜか、裕福と言わないまでも不自由のない奥さまになってしまった。夫が出張で留守の冬の夜、猫まで抱いてBBCテレビの連続ドラマなんか観ている。

    そして趣味が悪かったのか男運がなかったのか、ひどい恋愛や結婚を経て、自分の子をもつ機会も逸した。それがどういうわけか、今頃になって継子ながら息子ができてしまった。大人になった彼は妻と職場を得て、子供を迎える準備も整ってきた様子だ。

    夫の両親は亡くなり、私の両親も老いて援助の必要な状況にいる。そう遠くない昔に子供だった存在、世話されてきた存在が、その子は成長し親は子供還りして、役割がぐるっと一巡りする。

    還暦というか、60年ぐらいで人生は始まり、すったもんだし、いびつな果実を結び、始点に戻ってくるのだ。これから私の子供時代がもう一度始まる。今度は幸せな子供時代にしようっと。
    プロフィール

    シカ

    Author:シカ
    夫のカエルとともにヨーロッパに住むシカです。シカは日本生まれですが、ここ20数年イギリス、フィンランド、ノルウェー、スペイン、ドイツ、振り出しに戻る(イギリス)と流れてきました。カエルはフランス生まれです。詳しくは自己紹介ページへ。

    引用・転載は原則として歓迎ですが、事前にご一報ください。どのような論旨・目的での引用・転載か、把握しておきたく存じます。

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